IPUT電子工学研究会による様々な研究結果をおいておくところ

真空の歴史

トリチェリの真空


管の一端を水に入れて、管のもう一端から空気を吸うと、水も一緒に移動してくる。
ガリレオ・ガリレイのいた時代では、それは真空嫌悪説で説明されていた。
すなわち、自然は真空を嫌うため、真空が生まれないようにするためにそのような動き方をするということである。

ガリレオは井戸ポンプで水を汲み上げるとき、その高低差が10mを越すと汲み上げられなくなることに気づいた。最初はポンプの故障と考えて職人を呼んだが、
職人はすでにその現象のことを知っており、ポンプで10m以上まで水を汲むことはできないということは昔から知られていたようである。
この現象は真空嫌悪説ではうまく説明できなかった。

この現象を確認するのは、次のようにして行える。10m以上の長さの水道ホースと丸底フラスコを用意して、それらを水の入ったバケツに沈めて内部を水で満たし、ホースの一端にフラスコをつなぐ。
ホースの口がバケツから出ないように、ホースを紐でバケツの取手に縛っておくとよい。漏れがなければ、フラスコをバケツから取り出してもその中は水で満たされている。
そして、フラスコを高いところに持っていくか、バケツを低いところに持っていくかして、バケツとフラスコの高低差が10m以上になるようにすると、フラスコの中に水のない空間ができる。

ガリレオの弟子であったエヴァンジェリスタ・トリチェリは1643年、細長い試験管の中を水銀で満たし、その口を水銀溜めの中に入れて試験管を倒立させると、水銀は水銀溜めの液面から76cmだけ上り、
その上部に水銀のない部分ができることを発見した。その水銀のない空間は真空であり、トリチェリの真空と呼ばれる。

パスカルは1647年の著書で、水が10m以上汲み上がらないのはトリチェリの真空と同じ理由によるものであると書いた。
すなわち、水と水銀の比重は1:13.6であり、水銀が76cmしか上がらないとすると、水はその13.6倍の1033cm≒10mしか上らないという訳である。

その時代の哲学者たちはトリチェリの実験を信じず、ガラス管に目には見えないほど小さい穴が空いているという主張や、
水銀が見えない紐のようなものに引っ張り上げていて、トリチェリの真空は特別なものであると主張したりしたが、
真空学派と言われたゲーリケ、パスカル、ボイルらは、真空はもっと普遍的な物であると考えていた。

マグデブルクの半球


オットー・フォン・ゲーリケは1650年、「空気ポンプ*1」と呼ばれる真空ポンプを発明し、金属製の半球二個を密着させて、内部をポンプで排気した。
この半球は16頭の馬を使って引っ張っても外せなかったと言われ、真空に対する近代的な考えの正しいことを示した。

ゲーリケはまた、半球を密着させるのに皮によるパッキンを発案したとされる。

ボイルの法則


ボイルはトリチェリの真空を使って大気圧を測ったり、U字管を使った水銀圧力計をバロメーターと名付け、このバロメーターとゲーリケのポンプを活用して、空気の圧力と体積の関係を研究し、
トリチェリの真空とゲーリケのポンプで作った真空は同じ物であることを実証し、真空嫌悪説を粉砕した。
そして、水銀中3cmから300cmの圧力範囲での実験により、温度が一定であるならば、気体の体積Vと圧力Pの積が常に一定であるという関係を1661年に証明した。今日ではこれはボイルの法則と呼ばれている。

エドム・マリオットがこの法則を再発見したので、マリオットの法則とも呼ばれる。

真空ポンプ

容積移送式


容積移送式のポンプは、気体を閉じ込めて圧縮し、より高い圧力の空間に排気するポンプである。

1640年代ではトリチェリの真空は唯一の真空ポンプであったが、
1650年代からはゲーリケのポンプも使われるようになった。このゲーリケのポンプはピストンを用いた容積移送式のものである。
1660年にはゲーリケのポンプを改良したボイルのポンプが作られた。

1850年ごろにはピストン式のビアンキのポンプが作られた。
1862年にはテプラーポンプが発表された。これは水銀溜めを上下させることでガスを吸い込んで排気する仕組みになっている。
1865年にはシュプレンゲルポンプが発表された。これは1mほどあるガラス管に水銀を滴下して気体を圧縮するもので、連続的に排気することができた。
1879年のバボのポンプはシュプレンゲルポンプを改良したもので、下に落ちた水銀を再び上部の水銀溜めに上げるのを水流ポンプで自動的にやるように改良したものである。
1890年にはピストン式のフロイスのポンプが作られた。このポンプは2*10-4Torrまで到達し、電球製造にも使われた。
1905年にはゲーデが水銀回転ポンプを発明し、その後水銀回転ポンプの補助ポンプとして油回転ポンプを発明し、これにより真空度は10-4Torr台になった。

運動量輸送式


拡散ポンプなどの元になる水流ポンプは、1890年ごろには実用化されていた。

1913年にゲーデは分子ポンプを発明した。これは10-4から10-5Torrの真空が得られ、排気速度も大きかったのでX線管が工業的に作れるようになった。
1915年には、同じくゲーデが水銀拡散ポンプを発明し、1916年にラングミュアはそれを改良した凝縮ポンプを作り、10-5から10-7Torrの真空が得られるようになり、真空管製造に使われた。
しかし水銀拡散ポンプは水銀の毒性、重量や、蒸気圧が高いためにトラップの冷却に液体空気が必要であることなどが短所であった。

1928年に、メトロポリタン・ビッカース社のバーチは、石油の高沸点の成分を精留したものを、水銀の代わりに拡散ポンプに使えることを発表した。
その後、1935年にイーストマン・コダック社のヒックマンは、自己分留式の油拡散ポンプを発明し、水冷だけで10-6から10-8Torrの高真空が得られるようになった。

溜め込み式


化学反応や吸着によって排気するものは溜め込み式に分類される。
活性炭も一種の溜め込み式ポンプである。

ゲッターも溜め込み式ポンプである。
1885年ごろに、アメリカのマリガナニによって電球にゲッターが用いられた。
1906年ごろには、真空管にマグネシウムゲッターが用いられた。

1955年ごろにはゲッターイオンポンプが作られた。
1957年ごろにはエベイパーポンプが作られた。
1960年ごろにはバックイオンポンプが作られた。この辺りで、10-10Torrの超高真空を得られるようになった。

また、1958年ごろからはクライオポンプが使われるようになっている。

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